「罪からの解放1:なぜ豚小屋に留まるのか?」ジェフ・リンスコット





愛に溢れるお父さんは、放蕩してきた息子の悔い改めの演説の途中、そのまま、彼を受けいれます。
新しい服、新しい靴、新しい指輪を彼にあげて、彼を宴会に連れて入ります。

勘違いしないでくださいね。
悔い改めが不必要なのではなく、本当の悔い改め、メタノイア - 向き直し、考えを変えることが欠かせないことです。
信仰生活は、心の一新によって思いを毎日変えていく旅です。
「毎日新たにされています。」2コリント 4:16
しかし、自分の悲しみや、悔いる気持ちによって、なんとか神様の好意をいただこうと思っているクリスチャンは、自分の過去の罪、失敗、自分がどれほど悪かったか、また自分が罪人だというアイデンティティを常に覚えておかないといけないと思っています。
これは、本来の悔い改めとは違います。

自分の失敗を悲しみ、泣いてもいいですが、そこに留まってはいけません。
主はあなたの嘆きを喜びに変えてくださいます。
あなたの涙が喜びの涙になるはずです。
あなたの叫びは、感謝と賛美の叫びであるはずです。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」詩篇 30:5
悲しみは、一瞬、喜びは、一生!

じゃあ!罪を犯してもいいですか?罪はどうでもいいですか?
パウロが言ったように、言います:「絶対にそんなことはありません。」ローマ 6:15

この話の大きなキーポイントは、罪、つまり神様の目的から離れた行動をすれば、待っているのは豚小屋だということです。

お父さんが怒るとか、神様からのばちが当たるのではなく、あなたが、自分の選択の結果、その摘み取りとして豚小屋の中で苦しむということです。
せっかくの宴会のごちそうも食べれません。罪を犯すのは愚かなことです。もったいない!

前回言ったように、豚小屋自体は、神様の怒りと同時に、神様の愛の表れです。帰っておいでの招待状です。

ローマ1章:神様は、彼らを良くない思い、良くない行動に引き渡されました。
同じように、お父さんは、息子を彼の好き放題なことができるよう、そしてその報いを彼が味わう事を許し、明け渡しました。

「罪を犯すと、神様に怒られますよ!」ということを聞いたことがありますか?

これこそ、人間的な視野で、幼い考え方です。
パウロが言いました:愛は怒らず。
神は愛、そのものです。じゃあ、愛して下さっている天のお父さんは本当に、人間のように、怒りますか?

神様の心、その怒りも明確に見せてくださったイエス様を見ましょう。
イエス様が一番怒ったのは、何ですか?誰に対してですか?
罪人の行動に対してですか?違います。

偽善な宗教者に対して。
神様の御言葉を持っているのに、御言葉によって生きていない人に対して。
知っているはずのに、その知恵によって生きていない人々です。
イエス様は、罪人に対して、決して怒りませんでした。

キリストにある人よ。クリスチャンたちに言います:

神様は、もはやあなたの罪に注目していません。
言い過ぎですか?
言い過ぎではないと思います。神様が注目しているのは、あなたがキリストのように変えられていく、成長することです。
罪は、それを邪魔するものだけです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル 12:1
要点は、罪に注目することではなく、生きる目的を邪魔することを捨てるのです。そして、前に置かれているその目的、神様の子供としてのアイデンティティにひたすら歩むことです。

「でも、あなたが罪を犯すと、神様は悲しむ。」

そうですよ。でも、それは、自分のことを認めない人間に対して、拗ねて悲しんでいるのではなく、せっかく、すばらしい宴会を用意しているのに、子供がドロドロの豚小屋に眠っているのが悲しいのです。
私も、父親として、子供が僕の言うことを聞かなかったら、人間のように拗ねることもできます。それは、愛の浅い、人間的、幼稚なお父さんではないでしょうか?
僕も、そうなったことがあります!

でも、子供が私のいうことを聞かないで、怪我をして傷ついたり、大切なものや、将来の素晴らしい機会を失うなら、もちろん、子供のために、悲しみます。

人の罪は、自分に害を与えます。なぜなら、神様の本来の目的から離れているからです。
全ての罪は、種のようなものです。必ず実を結びます。その実がすぐならなくても、時になると実になります。
罪を行う人は、罪の奴隷です。罪人、罪の奴隷のアイデンティティに属しています。

罪は、死を生む。
今、現在の死です。
現在の人間関係の中の死。
現在の心の状態、思い、体にある死。
その死がすぐ見えなくても、いつか、どこかで、その結果がでます。

この「死」というのは、今、生きている間の死です。
そして、クリスチャンも、その死、放蕩息子の豚小屋にとどまることもできますよ!
クリスチャンになっても、死の結果がありますよ。
ただ、罪に誘惑される時に、毎回、毎回、脱出の道も用意されています。
豚小屋に留まる必要はありません!

一つの証と同時に励ましを分かち合います。

ある若いクリスチャンの男性がポルノ中毒で苦しんでいました。
辞めようと思っても、辞められない状態で、罪の束縛からなかなか自由になることができませんでした。

ある日、夢を見ました。
牢獄にいて、オレンジ色の制服を着て、手には手枷、足にも足枷がつけられ、縛られている状態でした。彼は刑務所の食堂にいて、給食のトレーをもって、テーブルの間に歩き、食事をする場所を探しました。
突然、イエス様が見えました。同じ、オレンジ色の制服を着て、同じように給食のトレーを持ち、座る場所を探していました。
しかし、イエス様には、手枷、足枷はありませんでした。
若い男性がイエス様に声をかけて、「イエス様、一緒に食事をしませんか?」と訪ねたら、イエス様は、にっこりして「もちろん!」と返事をしました。二人が座って、食事をして、会話をしました。
若い男性が、食事中に、あまりにも嬉しくて、「イエス様、毎日このように一緒に食事をしてもいいですか?」と聞くと
「もちろん、いつでも一緒に食事をしましょう。」とイエスが返事しました。
そして、身を寄せて、イエス様が彼に言いました:「いつでも一緒に食事をしてもいいですよ。でも、知っているかな。牢獄の扉は、空いていますよ。」
男性は夢からさめました。

牢獄の扉は、空いていますよ。
イエス様があなたと一緒に、その豚小屋の只中におられる。
しかし、その扉が空いていますよ。


キリストにあって、皆新しく生まれ変わったものです。
罪人のアイデンティティから、神様の子供のアイデンティティにかわりました。
豚小屋に留まる選択もあります。
牢獄に留まる選択は、あなた次第です。
でも、扉は開いています。

お父さんのもとへ帰る道は明らかです。

このメッセージを聞いて、まだまだ豚小屋に留まっているように感じる人、一緒に祈りませんか?よかったら、今祈りましょう!
・今、私は牢獄の中で苦しんでいます。イエス様、あなたは、その中で一緒におられますか?だとしたら、どこにおられますか?その中で、何を語っておられますか?・子とされている新しいアイデンティティについて、新しい啓示を受け取ります。見せて下さい。・豚小屋にこれ以上いるのはもう十分です。脱出の道を教えてください。具体的にどうやって父のもとへ帰れるのか、その道を示して下さい。